こんな人生送ってきました

友達が1人もいなかった日々の先に見えたもの

こんにちは、たかえです^^

最近、出会う人出会う人に言われる言葉があります。それは「人の良いところを見つけるのがうまいよね」と言うもの。お…ぉ…なんともありがたい言葉…!古くからの友人は、”これがたかえの通常運転”と、もはや取り合ってすらくれないので、逆に新鮮です。笑

たかえ
たかえ
と言うわけで、関わった皆さん御愁傷様でございます。私はもれなく愛を注ぎ続けますぞ

今では割と本気で、国籍、性別、年齢、言語、性嗜好、ありとあらゆるものを超えて「人類皆兄弟」と思っているのですが、オンギャーと生まれた時からそうだったかと言うと、そうではなく。むしろ、2つの大きな大きな山を越えてきたからかな、と思います。

今日は、何がどうなってこんな私になったのか、良かったら聞いてやってください。

Contents

中学の頃のしょっぱい記憶

 

日本全国津々浦々「女子中学生」という生き物は、概して”ムツカシイ”ものです。私が学生だった頃も、例に漏れず、その”ムツカシサ”に頭を悩ませていました。笑

4月。もともとゆるい天パだった髪は無残にも、うねりにうねり、元々太りやすいのに食べるのも大好き、おまけに常に顔が脂ぎっている(ついでにビン底メガネ)という残念装備ばかりは万全だった為、クラスカーストで言えば、完全に「下」という容姿で中学校に入学しました。

これが『下』の実力じゃぁぁぁぁぁあああ!!!!!(なんでよりによってお前は持ってちゃダメだろってものを持っているのか、問いたい(真顔))

 

 

小学校の頃は、それでもマイペースなアーティスト?として、なんとか市民権を得ていましたが、中学は、うん、ダメね、甘かった。しょっぱなから、小学生の頃は一番仲が良いと思っていた大好きな2人から存在をシカトされるようになります。

移動教室は当然置いていかれる、話しかけても、会話どころか相槌すら打ってもらえない、あえて?目の前での手紙や小説のやり取り…。幼稚と言えば幼稚なのですが、新生活を始めたばかりの自分にはキツかった。そもそも大好きでしたからね、二人とも。

この頃の友達は、女子トイレ。

休み時間はいつも一人になってしまうので、それ以上傷つくのが怖くて、チャイムが鳴る瞬間に教室を飛び出てダッシュ。トイレの個室にこもってポロポロ涙していました。

ハァァァァァ?そんなん、できるかい!!!!!

南米のど真ん中、ボリビアにて。野生のフラミンゴパーク。死骸が骨となった状態で、たくさん転がっていた。

 

春過ぎて、夏来にけらし白妙の…、そんなん唱えてる間に春は過ぎ、夏が来て、私の幸せ残高は底をつき、いよいよ学校に通うことがキツくなって来ました。ちなみにここに到るまで、誰かに頼ることも、悩みを打ち明けることもしていません。

そんな均衡を破ったのは、まさかの、母。

「お母さん、…あのさ、学校行きたくない。」

ポツリと出た言葉をきっかけに、当時の自分の状況や、それがもう4ヶ月近く続いていること、苦しい心境を話したような気がします。もうこうなったら、と「学校に行かなくて良い」と言ってもらえるよう、少しくらい、盛ったかもしれません。全てを聞いた後、母はこう言いました。

「たかえ、その2人の良いところを見つけなさい。」

………は?はて?いやいや、母さん何言っちゃってるのカナ?と思いましたよね。でも、この母、本気です。

「もう、2人のことは呪うに呪ったんでしょう?嫌いきったんでしょう?じゃあ、良いところを見つけてごらん。

苦しかった。震えるくらい、苦しかった。自分のことを追い詰めている人間を、なんで、今更…、良いところなんか、見つけられるか。見つけられるもんか。

悔しくて情けなくて悲しくて虚しくて、やっぱり涙が出ました。

やってみるしかない

ホゲーってしている。目が死んでる。こんな顔をよくしていた記憶。

 

でもね、もうこの時点でね、ある意味精根尽き果てていたんですよね。2人のことは嫌うだけ嫌ったし、それと同時に、こんな自分自身も呪いきった。もう、こうなるとやることないんですよ。ただただ気づけば同じ思考のループに入るだけで、新しい考えなんて、一切浮かばない。

だから、仕方ない。

母よ、娘はやってみるよ。

そう思ったのでした。

とは言っても、キッツイっつうの

やってみようと決めたものの、彼女たちとの良い思い出は遥か昔のことのように思えて…最初は、とても素直に良いところなんて見つけられませんでした。

「えぇと…まぁ、言いようによっては、自分の気持ちに素直なところが、良い…かな…?(引きつりながら)」

そんな風に、自分の脳に無理やりギブスをはめながら、生活するようになりました。

…おや?…おやおやおや?

最初こそ、ものすごく皮肉な”良いところ”を見つけていたのですが、人間慣れるものです。

「髪が綺麗なストレートで素敵」「スラリとした細身の身体は羨ましいほど。」「華やかな笑顔、良いなぁ。」

基本的に置かれている状況は変わらずで、彼女たちの内面にはあまり触れられなかったですが、自然と良いところに目を向けられるようになっていきました。

ちょっと暗いから骨休めに。いつから絵を描くのが好きだったのか…子宮か?

 

この習慣を始めて夏休みもあけて、秋口に差し掛かった10月のある日、ふと、”もう、そんなに苦しくない”自分に気づいたんですね。

苦しい苦しい(=欲しい、欲しい…!)と固執していた感情が、気づいたら和らいで、消えていた、というか。

「もう、いっか、いまだに”仲が良い”と呼べる友達なんて、これっぽっちもいないけれど、少なくとも、全員から迫害を受けているわけではないんだし。」「きっと、あの子たちも、何か嫌なことでもあるんだろう。」くらいに思える境地に達したんです。イエス登頂。

たかえ
たかえ
ちなみにこの悟りを開くまでは、アルゼンチンへ飛んでタンゴを生で見て死ぬか、早く年金生活を送りながら、静かに死を待ちたいと願っていました。←

自分が変わると、相手も変わっていく

彼女たちが変わったというよりは、私の感情が変化したことで、気づけば、一言二言、そして二言三言…と、奇跡的に言葉を交わせる日が増えていきました。

学年が終わる頃、”全く元どおり”とはいきませんでしたが、少なくともクラスメイトとして、同じ空間で、息を吸えるぐらいはできるようになっていました。

不自然なほどのシカトや、私を退いてのやり取りもなくなり、正直、ホッとしたよおおおおおおおお。WOOORAAAAAAYYYYYおめでとう私、ようやく1年が終わるよ!(号泣)

勇気を出して、言葉にして

そして時は流れ、3年生になって。

忘れられない、あの日を迎えるのです。

1年の時に辛酸を嘗めさせられた笑、例の友人とは3年もクラスが同じ。この時には、普通に会話ができるまでに関係は正常化していたのですが、一緒にいるグループとかでは全然なかった。

彼女は、クラスの華やかなグループにいて、私はなんとな〜くクラスをフワフワしていました。(一応、仲良くしてくれる友達もできました^^;)

そんな彼女、1年の時同様、また3人グループを作っていて。そのうちの1人とグイグイ仲良くなって、残った1人をかるーく追いやる、みたいなことをし始めたんですね。

私、も〜〜〜なんだか苦しくなってしまって。友人とは幼馴染だったのもあり、一緒に帰ることになったタイミングで、勇気を出して言ってみたんです。

”ねぇ、あの時みたいになってるよ?”

そして、ダムが決壊する

その瞬間です。

彼女が、堰を切ったかのようにボロッボロ泣き始めました。

「マジだわ、あたし同じこと繰り返すとこだった…!」「ありがt…」「ごめ…っ、あのさ、たかえ、ごめん…!」「私さ、たかえが傷ついてるって分かってた。」「だけど、あの頃色々あって、止まんなくて…ほんと、本当ごめん…!」「でも、あんたさ、私のこと全然責めないじゃん、悪口一回も聞いたことない」

 

「あんた、すごいよ」

 

 

 

泣きました。

15歳、受験も終わってもう一ヶ月もすれば、別々の高校へ。

そんな子どもが2人、人目もはばからず、わんわん泣きました。

完全に、氷が溶けた瞬間でした。

人の悪いところを見たっていいことない

Couch Surfingで知り合った友人を訪ねにメキシコへ。左からスペイン人、メキシコ人、日本人。国を出ると、私はどこまでもアジア人なのだと気づく。

 

人って複雑で、人の悪いところは簡単に見えてしまうんですって。

あの人の、こういうところ嫌だな、とか、なんでそういう言い方すんの?とか。なのに、良いところは、「探さないと、見えづらい」みたいです。

ちょっとカフェや居酒屋に立ち寄ると、よく、上司がどうのとか、うちの人がどうのとか”不満の声”は耳にするけれど、それと同じくらい”この人のこんなところが素晴らしい!”、”もう最っ高だよ、愛してる!笑”って高らかに語りあげている団体さんって…いない…悲しみ…。

中学生に限らず、人ってムツカシイですね。笑

でも、だからこそ、私は、良いところを見ていきたいのです。

日時計みたいになれたらいいなって思う。私がやらなくても、嫌なところは見えてしまうのなら、陽の光の当たる部分に目を向けて、宝物を探すみたいに”素敵なところ”を探したい。

そして、見つけた光を言葉にして、あなたに伝えたいのです。伝えるために存在するのが、「言葉」でしょう?

 

ビジネスを学びに来たはずなのに、温かい気持ちのキャッチボールに嬉しくなるばかり。嬉しいメッセージを、いつも、いつもありがとう。

 

と言うわけで、夜も更けるどころか、おいおい朝になっちまったよ!(驚愕)

2つ、と言いましたが、1つだけでも大ボリュームになってしまったので、続きはまた別の機会にしたいと思います。笑 こんなに長ーい話を、ジッと聞いてくださって、ありがとうございました^^

それでは、また〜♪

 

たかえ

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どうも、たかえです^^

【略歴】 幼少期から「絵を描くのが好き」という思いを持ち続け、
いじめられっこの経験から少数派の意見を大切にしたい、
個性豊かな世界を目指したい、とまずは教育の道を志しました。
(教育学部、美術専修。小中高の教員免許一種を持っています。)


が、そこはあくまで『教育学部』。
アートの専門性に満足できず、
さらなるレベルを求めてオレゴン州(米国)への留学を目指し
がむしゃらに努力!することになります
(ガチンコ野郎でした)。


アメリカでは、自身をモチーフにした版画が
他学部の学部長に購入されたことで
「価値を決めるのは自分ではなく相手だ」と気づき、
この経験が作品や人の価値に向き合うきっかけとなりました。


そんなタイミングでの東日本大震災。
『日本のためにできることがしたい』と
自分を過大評価しつつ、帰国。

小学校教師として働き始めたものの、
スキル不足と担任教師としての働き方に苦しみました。

その中でプラバン作品作りに出会い、
『創る』という原点に戻ってくることで 自分を取り戻す経験をしました。


心を壊した翌年、フルタイム教員を辞し、
専科教員として再出発。
この時、英会話の個人講師業も開始。
自身の作品販売にも、本気で取り組み始めました。



現在、ハンドメイド作家に寄り添う専門家として、
「作家が抱える悩み」や「アート気質な人々が
輝くための支援」を考え、『秘密喜地』という
講座を主宰しています。


一人ひとりの個性を尊重し、自信を持って
人生を歩むためのサポートを提供するべく奔走、
仲間たちが大好きで命をかけて取り組んでいます。



────────────── 私は、作ること、生み出すことが大好きで
作家気質の強い仲間たちと一緒に、この世界を
『個性で染め上げていくこと』を教えています。


元々は小学校の教員で、独立後は
ハンドメイド作家業と個人英会話教室を
独学でやって来たのですが
時間にもお金にも追われる環境
『一生このままなのかな…』と
不安になっておりまして。



30歳も数年経った2018年に、
オンラインを上手に活用した働き方が
あるのを知ったのをきっかけに、
販売の仕方/働き方に対する考え方が

180度変わりました。

ハンドメイド作家たかえの詳しいプロフィールはこちら

学んだことを自分の作品や、得意なことに
当てはめて実践していく。

これまでにない
【これをやっていけば間違いない】感…!


自分を理解し、自分らしさを活かして やってきたことが形になり、

作品は、自動的に数万円の高単価でも
継続プランのサービスでも、欲しい!と 言ってもらえるようになったことで
『これは作家さん達に伝えたい!涙』 という想いが爆発。


この小さなスペースでは、
到底収まり切らないので、
お勉強してきたことはお手紙にして
私自身の言葉で伝えることにしました。

クリエイターは自由人?

一般の方よりちょっぴり
自分に正直で、不器用なだけ。

自分の身を自分で守れれば、
誰にも文句は言わせません!

私の学びも失敗談も、笑って
お付き合いいただければ幸いです。